思い出をしまった場所

ハッピーエンドを思い描いています

穏やかさ

心が穏やかだ。


わたしに愚痴を言ってくる人がいないこと。

それが1番の理由。

 

自分に関係のないことでも不平不満愚痴を聞かされていると心の消耗が激しい。

心が疲れて刺々しくなってしまう。

わたしも愚痴を言わないといけないような気持ちになる。

 


わたしはわたしの過去を話さなくなった。

話してもサラ〜っと流すくらいに。詳しくは伝えない。

ネガティブな過去なんて、未来には必要ない。

そんな事より楽しいことを話して笑っていたい。

わたしの間抜けな話を聞いて笑って欲しい。


お腹が痛くなるほど笑うことが多くなった。

一緒に笑ってくれると嬉しくなる。


わたし1人で笑ってるなんて寂しい。

一緒に爆笑したい。


どれだけ大変でも不平不満を言わない人がいる。

わたしも見習おうと思う。



心の変化

家族のために生きようと、自分の幸せは考えないように、そんな風に思ってたけど。


今はとても自然に自分が幸せで過ごすことを考えてる。


これまでとは違う未来を見てみたいと思ってる。

家族を裏切るとか犠牲にするということではなくて。


家族を犠牲にしてまで手に入れた幸せなんて、それはわたしの幸せではないし。


幸せって無理してなるものでもないし。



わたしのツインソウル

この世界にツインソウルというものが存在するとしたら、わたしにとっては、君だった。

 

わたしたちはよく似ていた。

話し方も笑い方も、物事の感じ方も。

 

その頃わたしはツインソウルというものを知らなかったので、いつも「わたしたちは前世で双子だったんだ」と思っていた。


同じタイミングで同じ言葉を発することがあるけれど、わたしたちにも頻繁にあることだった。わたしたちの場合は言葉というよりも文章だったのではじめの方は少し驚いたけれど、すぐに慣れてしまった。

お互いに急に「そういえば〇〇ってどうなったの?」とか同じタイミングで話してしまう。


恋愛している頃のわたしたちは、毎日デートしていた。

休みの日はもちろんのこと、仕事が終わってからも一緒にいた。

一緒にいることが当たり前だったし「会わない」という選択肢がなかった。

 

君はわたしにたくさんのサプライズをしてくれて、わたしはいつも笑顔だった。

そんなわたしの隣で君もいつも笑っていた。

 

ツインソウルは1度出会うと一生一緒にいられるのかと思ってしまうのだけど、そうでは無いのだそう。

必ず、離れてしまう。

でもまたいつかどこかで出会うのだそうだ。

だけどいつ出会えるかは分からない。

現世ではなく来世かもしれない。もしかしたらもっともっと先なのかもしれない。

 

と言うことは、わたしはこの人生ではもう君に会えない。


そうと分かったら、この人生、もうどうでもいいやと思ってしまう。

 

君のように、わたしにピッタリと合う人にはもう会えないのだから。


わたしたちは最後でこそ啀み合うことがあったけれど、それまでは喧嘩をしたことがなかった。

わたしがモヤモヤとする気持ちを伝えようものなら、君は言い返すことが出来ずにポロポロと涙を流した。そんな君を、わたしは「ごめんね、つらい思いをさせたね」と抱き締めた。

君のことが可愛くて可愛くて仕方なかったんだよ。

 

どんなことがあっても、わたしは君のことを嫌いにならない。忘れることもない。

今までもこれから先も、大切な人。

わたしが最期を迎えるその瞬間まで、大切な人だと君を思い出すのだろう。


この世界でわたしを見つけてくれて、一緒に過ごしてくれて、愛してくれてありがとう。


いつかの世界で出逢えたなら、きっとまた恋に落ちようね。

  



優しい雲

今日、お昼の少し前。

空が青くて綺麗だなーって思って見上げたの。

そしたら、羽根を見た。

ふんわりと柔らかそうな。

綺麗だなーって、写真撮りたいなって思ったけど仕事中だったからやめた。

 

 

母の、わたしを呼ぶ声が震えていた。

義理の妹さんが亡くなったと震える声で伝えてくれた。

母が泣いていた。

ひと言ひと言を絞り出すように話す母の背中を摩った。

 

母は滅多に泣いたりしない。

(もしかしたら1人で泣いている時もあったのかも知れないけど。)

悲しみに泣く母を見たのは、祖父が亡くなった時以来で、15年も前のこと。


今日見上げた空はきっと「これからお迎えに行くよ」と教えてくれていたのかも。

羽根の持ち主が、痛みも苦しみも無い場所へ連れて行ってくれますように。





嫌でも見なければいけないこと

今まで自分の気持ちに嘘をついていた。

 

妊娠、出産のタイムリミットがあと数年に迫ってきたことに焦りを感じる毎日。


「今日がわたしの人生で一番若い日なんだよね…」

 

殆んどの友達は子供を産んだ。

「妊娠しました」

「○月に赤ちゃんが産まれます」

「○月○日に女の子の赤ちゃんが産まれました」

 

久しぶりに連絡が来たと思ったらそんな報告ばかりで、おめでたいコトなのに気分は沈んでしまう。

 

子供、大好きなんだけどな…。

どうしてわたしのところには来てくれなかったんだろう。

 

一緒に住む祖母が、わたしがまだ結婚している時、従兄弟の産まれたばかりの子供の写真を見ながらわたしに言った

「(わたしが産む)曾孫を楽しみにしてる」

という言葉が忘れられない。

 

元夫と離婚した後、父には

「もう孫は諦めてる」

と冷たく言われた。

 

楽しみにされることも諦められることも、申し訳なくて遣る瀬なくなる。


父の思いの先に、わたしの気持ちなど全く考えていない事が悲しかったけど、離婚してしまったわたしが悪いんだと謝るしか出来なかった。

 

『子供がいない自分』から目を逸らしたくても、周りに起こる友達の妊娠、出産で、嫌でも『子供がいない自分』を思い出さなといけなかった。

 

元彼には、子供が出来ないのはわたしの所為で、挙句、不妊治療してくれる男でも見つけろと言われた。

元彼と結婚しなくてよかったと心底思う。

(別れてから「本当に結婚したい」と言って復縁を迫られたけど、時既に遅し。)


前に仲の良い従姉妹に

「(わたし)ちゃんも支えてくれる人がいて欲しいでしょ?」

と言われたことがあって。

今まで誰かに支えて欲しいと思ったことが無かったからピンとこなかったけど、今ならよく分かる。 

 

結婚していたかったな、と思う。

元夫と、とかじゃなくて、漠然と。

どんな人とでもいいワケじゃないけど、結婚していたら、子供がいないわたしの心の苦しみや思いを1人で抱えなくていいから。

甘えなのかも知れないけど。

(結婚していたら子供だって居たかもしれないんだけど。)

 

こういう気持ちの時に、心細い時に、寄り添ってくれる人が必要なんだろうね、わたしには。

 

今月に幼馴染に2人目の子供が産まれる。

とても喜ばしいことで本当に素晴らしい。

なのに、100%の気持ちで祝えない自分がいて嫌になる。

競争じゃないのに。

だけど、あと数年で(既にリスクがあるというのに)妊娠すら望めなくなるんだと思うと焦ってしまう。


妊活しようにも1人では無理だし。

 

どうしてわたしは皆んなと同じように生きられないんだろう。

子供のいない人生を選んだつもりなんて無いのにな。



 



明日の約束

「明日世界が終るとしたら~」と例え話はよく耳にする。

『世界』なんて広範囲の例え話はいつもピンとこない。

 

「明日、あなたの人生が終わるとしたら今日をどう生きる?」

 

わたしは今を余生だと思って生きてるところがある。

いつ人生が終わっても仕方ないと思ってる。

だけど、自分の人生に悔いが無いのかと聞かれたら、悔いだらけだ。

間違いだらけ失敗だらけの人生だし、誇れることも特にない。

幸せと感じたこともあったけど、それが生きる理由にはならない。

だからと言って自分で命を捨てることは、わたしはしない。

 

職場の男の子が若くして亡くなった。

突然の死。

亡くなった原因をわたしは知らない。

彼は最期のとき、何を感じたのかな。

 

わたしたちに「明日」は約束されていない。

例え話じゃなく、向き合わなければいけない現実。

 

「明日」が特別になった今、残された時間をどう生きる?

チョコレートドーナツ

「チョコレートドーナツ」

何年か前から気になっていて、でも観れないでいた映画。

最近観ることができた。

DVDを借りることも買うことも、小さな劇場で再上映をされていて観に行くことだって出来たのに、わたしはそれらをしなかった。

思いがきっと強すぎたんだと思う。

わたしにとってこの映画は大切なものになるだろうと疑わなかったから。

 

Mommyという映画がある。

グザヴィエ・ドラン監督の作品で、ADHDの息子とその母、そして向かいに住む女性が生きづらさや葛藤、苦しみを感じながらお互いを助け合い生活をしていくというものだったけど、ハッピーエンドで終わらなかった。

内容は重くて絶望がいつも隣り合わせにあるような映画だった。


観終わった後、帰り道、電車の中、家についてから、そして数日わたしの中で「ハッピーエンドで終わらなかった映画」はモゾモゾとし続けた。

だけどそれは決して面白くなかったからって訳じゃなくて、わたしの心に深く響いたから。

 

だからきっと「チョコレートドーナツ」もわたしの心に重く響くんだろうと。

 

観終わってから10日ほど経ったかもしれない。

 

1970年代、ゲイの男性(ルディとポール)が育児放棄されたダウン症の少年(マルコ)を養子として引き取るために奮闘するという内容だった。

 

観始めて暫くするとルディがマルコの手を繋いで歩き出すシーンがある。

そのシーンを観てわたしはホッとした。

ルディはマルコを最後まで絶対に見捨てたりしない人なんだと分かったから。

 

とても好きなシーンがある。 

「チョコレートドーナツが好き」と言うマルコにポールが「ラッキーだったな」といって戸棚から持ってきた紙袋を見せる。「食事がドーナツだなんてダメよ」と止めるルディ。チョコレートドーナツを頬張るマルコの笑顔に、穏やかな空気が流れた。

 

何気ない家族のワンシーンだけど、果てしない優しさを感じるシーンだった。


この映画は育児放棄されたダウン症の少年よりも1970年代同性愛者が社会から差別を受けていたという事実について強く描かれていた。(障害者の人権が軽くみられていたということも含め。)

『正しい』とは一体何なのか、分からなくなってしまうような差別社会。

 

ラストシーンはとてもソフトに描かれていたけれどわたしには重たくて暗いラストだった。

今思い出しても苦しさを感じてしまう。


ハッピーエンドで終わらなかった。


わたしの中でモゾモゾを残したこの映画は、きっとこれからも断片的にシーンを思い出させ、苦しみや優しさを感じさせてくれるんだろう。

 

大切な映画がまた1本増えた。