明日の約束
「明日世界が終るとしたら~」と例え話はよく耳にする。
『世界』なんて広範囲の例え話はいつもピンとこない。
「明日、あなたの人生が終わるとしたら今日をどう生きる?」
わたしは今を余生だと思って生きてるところがある。
いつ人生が終わっても仕方ないと思ってる。
だけど、自分の人生に悔いが無いのかと聞かれたら、悔いだらけだ。
間違いだらけ失敗だらけの人生だし、誇れることも特にない。
幸せと感じたこともあったけど、それが生きる理由にはならない。
だからと言って自分で命を捨てることは、わたしはしない。
職場の男の子が若くして亡くなった。
突然の死。
亡くなった原因をわたしは知らない。
彼は最期のとき、何を感じたのかな。
わたしたちに「明日」は約束されていない。
例え話じゃなく、向き合わなければいけない現実。
「明日」が特別になった今、残された時間をどう生きる?
チョコレートドーナツ
「チョコレートドーナツ」
何年か前から気になっていて、でも観れないでいた映画。
最近観ることができた。
DVDを借りることも買うことも、小さな劇場で再上映をされていて観に行くことだって出来たのに、わたしはそれらをしなかった。
思いがきっと強すぎたんだと思う。
わたしにとってこの映画は大切なものになるだろうと疑わなかったから。
Mommyという映画がある。
グザヴィエ・ドラン監督の作品で、ADHDの息子とその母、そして向かいに住む女性が生きづらさや葛藤、苦しみを感じながらお互いを助け合い生活をしていくというものだったけど、ハッピーエンドで終わらなかった。
内容は重くて絶望がいつも隣り合わせにあるような映画だった。
観終わった後、帰り道、電車の中、家についてから、そして数日わたしの中で「ハッピーエンドで終わらなかった映画」はモゾモゾとし続けた。
だけどそれは決して面白くなかったからって訳じゃなくて、わたしの心に深く響いたから。
だからきっと「チョコレートドーナツ」もわたしの心に重く響くんだろうと。
観終わってから10日ほど経ったかもしれない。
1970年代、ゲイの男性(ルディとポール)が育児放棄されたダウン症の少年(マルコ)を養子として引き取るために奮闘するという内容だった。
観始めて暫くするとルディがマルコの手を繋いで歩き出すシーンがある。
そのシーンを観てわたしはホッとした。
ルディはマルコを最後まで絶対に見捨てたりしない人なんだと分かったから。
とても好きなシーンがある。
「チョコレートドーナツが好き」と言うマルコにポールが「ラッキーだったな」といって戸棚から持ってきた紙袋を見せる。「食事がドーナツだなんてダメよ」と止めるルディ。チョコレートドーナツを頬張るマルコの笑顔に、穏やかな空気が流れた。
何気ない家族のワンシーンだけど、果てしない優しさを感じるシーンだった。
この映画は育児放棄されたダウン症の少年よりも1970年代同性愛者が社会から差別を受けていたという事実について強く描かれていた。(障害者の人権が軽くみられていたということも含め。)
『正しい』とは一体何なのか、分からなくなってしまうような差別社会。
ラストシーンはとてもソフトに描かれていたけれどわたしには重たくて暗いラストだった。
今思い出しても苦しさを感じてしまう。
ハッピーエンドで終わらなかった。
わたしの中でモゾモゾを残したこの映画は、きっとこれからも断片的にシーンを思い出させ、苦しみや優しさを感じさせてくれるんだろう。
大切な映画がまた1本増えた。
まだ雨は冷たいけど
何となく苦しいなあ、って。
楽しかったことを思い出したら、戻ってこない日々なんだなあって。
そしたらまた苦しくなって。
こんな日に限って眠れないし。
空は雲で覆われてるし。
沈むだけ沈んだら、また昇ってこれるんだけど。
どうして毎日笑っていられないんだろう。
そんなこと考えても仕方ないんだけど。
雪解けの土の中から花の芽が顔を出してたの。
春はちゃんと近くに来てるんだなあって。
小さな幸せを感じよう。
そうして前を向いていこう。
太陽みたいにね
お願いがあります。
いつも笑っていてね。
雨上がりに見える景色
8月は今日でおしまい。
毎年、あぁ今年も夏が終わっちゃうのね、と寂しくなる。
暑くて暑くて「早く夏終われー!」と毎日思っていたのに。
34歳、独身。
来月35歳になる。
四捨五入すると40歳か…とちょっと呼吸が苦しくなる。
「…アラフォー」
思わず心の声が漏れてしまう。
わたしは1度結婚をしているので「結婚は?」「誰かいい人でもいないの?」「年齢も年齢なんだから…」と世話を焼くおばさま方がいない。有り難いことだ。
彼氏いない歴半年。
恋活も婚活もしていない。
離婚してすぐは、また結婚して子供を産みたいと思っていた。
それから色んなことがあって、今は別に結婚しなくていいし子供もいなくてもいいやって思うようになった。
わたしには7歳離れた18モノソミーの姉が1人いる。
染色体異常の障害で、身長は低くぽっちゃりしていてダウン症のようだけど、よく見ると少し顔の感じが違う。
わたしは姉のことが可愛くて仕方がない。
姉の仕草や行動が愛しい。
実は昔はこんな風に思えなかった。
姉の障害が嫌で嫌で、友達にも姉のことは話せなかった。
「どうしてわたしのお姉ちゃんは障害者なの」
いつもこんなことを考えていた。
大好きだった母方の祖母が亡くなったとき、忙しく動き回る周りの大人たちの邪魔にならないように姉とわたしは炬燵に入って声がかかるのを待っていた。
ふと姉を見ると炬燵の上にあった鉛筆をコロコロと転がして遊んでいた。遊んでいたというより鉛筆が転がる様子を観察していたような感じだったかもしれない。
わたしはそんな姉を見て「お姉ちゃんは子供のような純粋な気持ちを持ってるんだ!」と何故か心がふんわりと柔らかくなったのを今でも覚えている。
このとき初めて姉の障害を少しだけ理解したのだと思う。
最近になってやっと姉と2人で出掛けるようになった。
行きたいところや食べたいものを、姉自身でリサーチして教えてくれる。
美術館に行ったりアートに触れたり、カフェに行ったりした。
次回もアートを見に行きたいのだと言う。
姉は自分の気持ちをあまり言葉で表現しない。
楽しいことや嬉しいことは少ない口数で和かに伝えてくれるけれど、つらいこと悲しいこと怒り憎しみは一切言葉にしない。
我慢ばかりの姉に少しでも多く笑顔になってほしくて一緒に出掛けるようになった。
わたしはこの先恋人と呼べる人とは出会えないかもしれないけれど、姉が隣に居てくれて笑顔でいてくれればわたしには十分な気がしている。
「じゃあ、あなたの幸せはどうするの?」
と聞かれることがよくある。
姉と一緒に居ることでわたしが幸せになれないなんて、それは違う。
わたしが姉と一緒に居たいのだから、ね。
35歳を目前に、わたしにとって大切なことや思いが見えてきた。
こういう生き方が出来るんだってことにも気付いた。
8月が今日で終わる。
今年の秋はどんな風に過ごすだろう。
誕生日には今年も姉がバースデーソングをアカペラで歌ってくれるんだろうな。
楽しみ。